構え 両手を伸ばしてバットを高く掲げ、呼吸をするように幾度か全身の背伸びを繰り返す、独特の待機の仕方は『ジャック打法』と呼ばれた(由来:童話「ジャックと豆の木」)。この待機法は形を変え、時には行わず、メジャー2年目頃まで続けた。メジャー1年目には相手チームから、両手を上げた脇の下から捕手が出すサインを覗いているのではないかという疑惑をかけられたことがあるが、問題にはなっていない。[22]。パラオ ダイビング スイング 前述のジャック打法を一時やめていた阪神時代の2000年頃、柏原純一打撃コーチの指導のもとスイングスピード上昇を目指す発言をした。そして、本塁打や好打時の談話によく「(バットの)ヘッドの重みを使えて打てた」というセリフを使っていた。スイング時にイメージするのは「バットを鞭のように使って打つ」とのこと。前者のセリフが出た時の打撃を中継で門田博光は「スイング中ずっと同じ力で振るのではなく(ボールにバットが当たる)インパクトの瞬間に最大の力を伝えている」との解説をしている。同様に、前述の広戸聡一は『ナンだ!?』で、新庄の打球に長飛距離が出る要因について「優れた上半身を生かしてのインパクトへの強い伝達能力」と分析している。 走塁高速バス 格安 ベースランニング 三塁打時の走塁は特に速く、その中でも二塁から三塁の間はトップスピードに乗り歩幅も大きく特に速い[23]。1997年のある三塁打での、打ってから三塁に到達するまでのタイムは「11秒03」という数字が出ている[24]。 阪神時代石垣島 ダイビング 入団時から外野手だったが、阪神時代は遊撃手、三塁手に転向した時期もあり内野も守れる。1999年、2000年には二塁を、また1994年、1999年のオールスターゲームでは三塁を守ったことがある。このためか、水島新司の漫画では本職の外野手よりも内野手として出場していることが多い。日本球界復帰直後に発売された「パワプロクンポケット1・2」ではメイン守備は外野になっているがサブポジションで遊撃手も守れる仕様になっていた。 なお試合内での移動を除く一軍においてのポジションコンバート歴は、1991年遊撃手デビュー→1992年(前任トーマス・オマリー負傷離脱により)三塁手→(前任久慈照嘉負傷離脱により)遊撃手→(前任八木裕打撃不振により)中堅手定着。 1992年5月26日の横浜大洋ホエールズ戦(甲子園)でその年の初スタメン。トーマス・オマリーの故障により出番が回ってきた。第1打席の初球をレフトへプロ初本塁打(投手:有働克也)。この時のポジションも内野(三塁手)。その後、オマリーの復帰により遊撃を経て本来の外野手(中堅手)に戻る。そして亀山努と共に大ブレイクを果たす。高速バス 広島 1992年の阪神は、ヤクルトと激しい優勝争いを行った。9月16日の広島戦で、守備ではファインプレーし、大野豊投手からサヨナラホームランを放った。この時のファインプレーに関しては、両チーム無得点で迎えた8回表二死満塁の絶対絶命の場面(投手:湯舟敏郎)で、山崎隆造が放った右中間を真っ二つに割る当たりをセンターから走り込んできて地上すれすれでダイビングキャッチしたもので、サヨナラホームランと合わせて後に阪神ファンの間で伝説化されたプレーではあるが、当の本人は好プレーでも何でもないと語っている。それによると、ライトを守っていた当時の外野守備のリーダーである亀山努から、センター定位置より右に寄るポジショニングを指示されていたにも関わらず自分の判断で少ししか寄っていなかったため、ぎりぎりのプレーになってしまったとの事である。プレーのあと亀山に、言われた事を守っていれば余裕でしたと謝罪したという。そしてヒーロー・インタビューでは「優勝」を口にした。しかし、その後の阪神は優勝争いから下降しはじめた。以降、阪神ファンの間で選手が優勝と口にするのが「タブー」になった[25]。大阪ビジネスホテル 1994年秋季キャンプにおいて、山内一弘コーチに「チャンスに強く、常にファンを喜ばせるだけの華がある。王貞治ではなく、長嶋茂雄を目指せ」と声をかけられたが、「長嶋って誰?」と答えた。 1995年6月20日の横浜戦、佐々木主浩から放った本塁打になりそうな打球を自身の名前の書かれた応援旗で叩き落とされ、二塁打になったことがある。高速バス 横浜 1995年オフに「センスがないから」と引退宣言し、その後撤回した。この一件は当時右肘や右足を痛めていてオフは治療に専念しようとしていた新庄を藤田監督が無理に四国黒潮リーグに出場させたことにより新庄は球団に横浜へのトレードを志願、それを拒否された上に父親まで不当に批判された経緯があり、「センスがない」という発言は確執の相手であるはずの藤田監督に対する新庄なりの気遣いであった。その後騒動に巻き込まれた父親(ちょうどそのころ体調が思わしくなかった)の病気が悪くなったと聞かされ[26]、「父の命には代えられない。自分のユニフォーム姿が一番の薬」と父を勇気づけるために現役続行を決断した。もっとも、これについての真偽は不明で、書籍「元・阪神」では、退団騒動は一部スポーツ紙による誇張記事が発端で、藤田監督との関係もそれほど悪くなかったと記述されている一方、新庄の父親の著書では藤田監督との確執から一連の出来事が起こったと証言されている。また、この当時は日本プロ野球を引退すれば、大リーグへの挑戦が出来たことも理由の一つであったらしく[27]、後日、「1995年の騒動は、引退して野茂英雄のように大リーグに挑戦したかった気持ちもあったことから起きた」とインタビューで語っている。しかし、インタビュー時にはすでにポスティング制度が確立していたこともあってか、新庄のギャグの一つと思われ、大きく報道されることはなかった。セブ ダイビング 練習中に訪れる阪神OBの中で、新庄は田淵幸一を敬遠していたが、川藤幸三には自ら喜んで歩み寄っており、スランプに陥っていた時に川藤から「そんなもん、来た球をカーンと打てばええんじゃ!」という単純な一言をもらって脱出したことがある。また新庄は自著エッセイで、「バッティングの調子が落ちた時はコーチに聞くよりはグラウンド整備担当者などの裏方さんに自分のバッティングの状態を訪ねる事の方が多いぐらいだった。案外彼らがパッと言ってくれる事が復調のきっかけになる事がある。実際にそれから調子を戻した事がある。」と記している。また入団時からの恩師である柏原純一(90〜95年二軍、89・99〜01年一軍)打撃コーチについては「師匠だと思っている。二軍時代夜遅くまで残って一緒に練習してもらった。『とにかく今年一年は、お前を(ウエスタンの)四番でいくから』と強く後押ししてくれた。一軍に上がってホームランを打った時やメジャー行きも真っ先に報告した。」と記している。高速バス TDL 1997年のオールスターゲームにはファン投票セ・リーグ2位で出場するも、シーズン最低打率という体たらくに怒ったファンやセ・リーグ応援団が応援をボイコット。「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」と書かれた抗議の横断幕までもが掲げられた。新庄は引退会見でこの件について「あれはもう、耐えられなかった。」と語っている。7月23日の第1戦(大阪ドーム)では、新庄の打席になるとグラウンドにペットボトルが投げ入れられ、試合が中断する一幕があった。引退後に、現役時代に一番辛かった事としてこの事を挙げており、「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」の横断幕に対し「知らねえよ。」「(ファン投票で)選ばれたから出てるんだよ」と冗談交じりに語っている。(SMAP×SMAPにて)SEOとは 1998年9月1日ヤクルト戦(甲子園)の7回裏、2点を追い掛ける攻撃で川崎憲次郎から1点差と迫るソロホームランを放つ。この前日の8月31日に、新庄が高校時代、選手として中央では無名の存在に近かったのを発掘しプロへの道を切り開いてくれた恩師である阪神・渡辺省三スカウトが神戸市内のビル屋上から謎の転落死。同じく同氏に発掘された亀山魁斗(努)からこれを知らされた新庄は「何故」という思いで眠れなかったが、「今の自分があるのは渡辺さんのおかげ。どうしても勝ちたかった」という特別な思いで試合に挑んだ。結局そのままあと一歩のところで敗れはしたが、この年は自己最低打率、7月まで初ホームランが出ず結局僅か6本で終わってしまったほどの極度の打撃不振の中、天国へと旅立つ恩師に贈る手向けの一発となった。宮古島 ダイビング 1998年オフの秋季キャンプで野村克也新監督から面接を受けた際、40分ほど監督の話が続いたところで「あまりいっぺんに言われると、オレ頭が悪いので覚えきれません」と言って遮り面接を切り上げた。しかし本人に悪意はなく、それが判ったのか野村監督も「可愛い奴や」と笑いながら振り返っている。これには新庄の計算があったらしく、話を一度に聞いてしまうよりも途中で切り上げたほうがこれから監督と接触出来るチャンスがあるのではないかと思ったという[28]。ビジネスホテル大阪 野村監督は新庄の守備と足に関してはヤクルト時代から認める記述を自著でしているが、打撃に関しては「打撃以外は一流」というふうに語っている。しかし打撃においても潜在能力は認めていたようで、就任一年目からたびたび新庄を4番に据えていて、最初に抜擢した時には「地位が人を育てる」というように理由を語っている。新庄は前出のエッセイ(2001年発売)で「野村監督の言葉で力を出すことができた」と感謝の意を表しており、阪神在籍最終の2000年には打撃において過去最高の成績も残している。同エッセイでは野村監督について他に「ウマが合った」、「選手個人の性格をうまく見抜いて、それを利用する」等とも記している。